福島県南相馬市小高区にある民家に我々が到着したとき、家屋の中には戸や窓を突き破って流れ込んだ大量の瓦礫と土砂で埋め尽くされていた。大津波が海岸から1.8km離れたこの場所に到達するまで、ありとあらゆるものを巻き込んでこの家の中や庭に押し込んでいったのだ。ここは福島第一原発から20km圏内の警戒区域に指定されていたが、4月16日に解除された。その間、人が立ち入ることができず、周囲は震災当時から手つかずのまま放置されている。
同市の鹿島地区では70戸もの家が跡かたもなく流され、田畑は瓦礫混じりの泥が40cmも堆積している。
被害のあまりの大きさに、誰もが言葉を失う。住民だけではとても復興できない。
そんな被災地に心強いチームがやってくる。ボランティアだ。ボランティアチームは依頼人のところへ行くと、信じられないようなものすごい力を発揮して、泥出しや荷物出しの作業を進めていく。
彼らは何の見返りも求めず、全国各地から被災地の復興のためにやってくる。私もそのひとりとして2012年4月29日から6日間活動した。
日本は今衰退しつつある。失われた20年のさなか東日本大震災が起こり、2万人近い人命が失われ、多くの街が壊滅した。原子力発電所の爆発事故で大量の放射性物質がまき散らされた。破綻した国家財政、そして政治の空白。日本は今歴史上最大の危機を迎えている。
では我々はこの国の衰退をただ待つばかりなのか。否。残された道はまだある。それがボランティア活動だ。
ひとりひとりのボランティアは微力かもしれない。しかし多くのボランティアが力を合わせて時代の大きな歯車を回していくことには大きな意義がある。
「がんばろう日本」「絆」といった言葉が巷にあふれている。しかし本当に大切なことは、そんなきれいごとではなく、自分自身が被災地のために手を差しのべることではないか。
実を言うと、私はボランティア活動に参加することに戸惑いの気持ちがあった。「興味本位ではないか」「津波の被害を見たいだけではないのか」という迷いがあった。他の参加者の中にも、「自己満足ではないか」という戸惑いを感じていた人があったという。
それについて、南相馬市にある仲町ボランティア活動センター代表・松本光雄氏はこう明言する。「動機が不純でもいいんだ。大事なのは結果だ。どんな動機でも、被災地に来て石ころひとつでも動かして復興を一歩でも二歩でも前進させることが大事なんだ」と。
ボランティアには、参加する意思があれば、誰でも参加することができる。ボランティアセンターに電話して行くだけでいい。持ち物は、ゴムコーティングされた軍手、長靴、帽子、厚手のカッパ、弁当、水筒、そして「熱意」だ。
ボランティアセンターでは、被災者からの依頼を受けて、ボランティア希望者に仕事を割り振っている。朝8時にボランティアセンターを訪れると朝礼があり、被災者からのニーズ(依頼)が発表される。参加者は自分がやりたい仕事に応募する。同じ仕事に集まった人たちで即席のチームができる。そしてみんなで現地へ行って作業をする。スコップや一輪車といったものは、ボランティアセンターで貸してくれる。また遠方から来て泊まりがけで参加する人は、寝袋持参で泊まることもできる。
今回私が参加した南相馬市のボランティアセンターに関する情報はこちら。
仲町ボランティア活動センター
〒975-0016
福島県南相馬市原町区仲町2-165 (2012年5月末に移転予定)
受付直通:0244-22-1803
携帯電話:090-6046-5976 (不在時・センター長 松本光雄)
ウェブサイト:http://v-home.net/
:http://ameblo.jp/v-home-net
南相馬市小高地区は1年以上も住民が立ち入ることができなかったため、震災当時のままの状態から草が生えて荒れ果てている。今まさに復興を担う多くのボランティアが必要とされている。「政治がダメだ」「役所はダメだ」などと言っていても何も前進しない。ならば、我々にできることを最大限努力すべきではないか。
復興最前線の福島県南相馬市のボランティア活動のようすを、私自身の体験をもとに述べたい。
取り壊し家屋の家具荷物出し
4月29日日曜日、我々8人のボランティアチームは、2台の車に分乗して鹿島区にある農家のA氏宅を訪れた。我々が到着すると、A氏は快く迎えてくれた。依頼は、取り壊す予定の家屋の中にある家具を運び出して、隣の納屋に入れることだった。タンスやソファー、書類棚など、たくさんの家具が家の中に残されている。到着して早速作業にとりかかった。
タンスは引き出しを抜いて軽くし、大きな物はネジをはずして丁寧に分解し、ひとつ2人がかりで運び出す。階段がせまく、しかも途中で直角に曲がっているので、大きなタンスは運ぶのに苦労する。小さなものは、ひとつひとつ運びだすより、階段と廊下に何人かで並んで「バケツリレー」をすると速い。
女性は食器を新聞紙にくるんで箱につめていく作業もしていた。
しばしばご夫婦と娘さんが、我々ボランティアたちの労をねぎらってくれて、コーヒーやバナナを用意してくださったので、適当に小休止をした。昼休みには、母屋のコタツで各自弁当を食べた。娘さんがサラダとデザートを用意してくれた。こんな気遣いは本当にうれしい。
A氏の奥さんに震災当日の話をうかがった。当時、奥さんは家の中にいたという。強い揺れが長く続いた。すぐにでも避難したかったが、年老いたお母さんを置いて逃げるわけにはいかず、ずっと家の中にいたという。しばらくすると雷のような音がした。それは周囲の家が津波によって壊れている音だった。幸いA氏の自宅は少し高台にあったので無事だったが、周囲は低く田畑になっていて津波が来たときは一時池のようになったという。
この家の片付けにご主人は2日かかると見込んでいたようだが、作業は1日で終了した。ご家族3人大喜びで見送っていただいて、我々はA氏宅を後にした。
泥と瓦礫に埋もれた田畑
B氏の自宅は南相馬市鹿島区を流れる真野川がつくる沖積平野にある。地図を見ると海岸付近に集落があり、田畑の中にも小さな集落がぽつりぽつりとある。しかし我々が訪れた時、そこには広く平らな平野が広がり瓦礫を積み上げた山があるばかりだった。70戸以上あった家は1戸を残してすべて流され、55人もの人が亡くなった。
我々が到着した時、B氏はすでに小型重機で作業をしていた。その横には建っていた家のコンクリートの基礎が残っていた。自宅周辺の田畑は、40cmもの瓦礫混じりの泥で埋まってしまった。早速我々は泥の中の瓦礫を取り除く作業を始めた。
津波の泥は、見た目は普通の土と変わらない。しかしスコップを入れるとしばしば屋根瓦にぶつかってギギギという音がする。どれも小さく割れていて、原形をとどめた瓦などひとつもない。ガラスも出てくる。ビニールのコーティングをした、破れにくい軍手が役に立つ。他にも生活のありとあらゆるものが土の中から出てきた。
写真が出た時は丁寧に泥を払うが、その部分が消えてしまうことが多い。B氏に見せるが、心当たりがないものがほとんどだ。どこか別の場所から流れてきたのだろう。
震災当日、B氏は山手にある娘さんの家で庭仕事をしていた。休憩をしに自宅に戻った時に激しい揺れがB氏を襲った。幸いこのときはB氏の自宅は無事だった。B氏が外に出てみると、井戸の水が3mの噴水となって噴き上がっていた。隣の家は崩壊していたが、幸い中には誰もいなかった。
急いで車で娘さんの家に行き無事を確認すると、義姉の安否を確認に行った。自宅前を通り、真野川の橋を渡った時川を見下ろすと、水が干上がっていたという。真野川は普段は流れがほとんどなく、ため池のように満々と水をたたえている。このとき、津波の引き波が起こっていたのだ。また海の方角は、空が真っ暗だったという。
B氏が丘の上にある義姉の家に到着して間もなく、ものすごい勢いで津波が平野部を襲ってきた。そこからは自宅の屋根が見えるはずだが、水没して見えなくなってしまった。
B氏の先祖はこの地に代々800年間暮らしているが、海岸から1200mも離れたこの場所にまで津波がきたことはそれまで一度もなかった。しかし現在そこは「危険地帯」に指定されていて、住居を建てることは禁止されている。B氏は再び農業ができるよう復興に取り組んでいる。
ボランティアのひとりがB氏の家の表札を発見した。陶器でできたそれは、不思議なことに無傷で残っていた。本来あった場所から50mほど離れた真野川の土手にあったという。B氏に手渡したところ、笑顔を浮かべて喜んでおられた。
放射線の脅威
放射線量は、「A&S福島」という民間の団体が南相馬市内を細かく計測している。この団体は「NPO法人チェルノブイリ支援・中部」という名古屋の団体が南相馬市の市民と一緒に運営している。市内で500m間隔で計測した値を、放射線量の高さに応じて色分けして地図に落とし、「南相馬市放射線量率マップ」として印刷されたものが500円で販売されている。ホームセンターやスーパーなど、市内の目立つところで掲示されているのを見かける。
なお、「A&S福島」では食品などを持ち込めば無料で放射線を計測してくれる。
以前からわかっていたことではあるが、放射線が高い地域は、原発から北西の方向(福島市の方向)へ向かって帯状に延びている。その地図にも明らかにその傾向が表れていて、市の東側の山地で非常に高い値が表れている。
線量計は、簡単なものであれば市内のホームセンターで購入することができる。私も7000円ほどで購入した。
地面から1mの高さでスイッチを入れると35秒で予想値が表示される。単位はμSv/h(マイクロ・シーベルト・パー・アワー)。2分ほどの間にさまざまな数値が表示され、点滅するランプが消えると確定値となる。これが1時間あたりの放射線量だ。年間線量を求めたいときは、これに年間の時間数をかける(×24×365)。
線量計でいろいろ測ってみた。例えば、小高区の中心に近いところでは、アスファルトの上では0.21μSv/hだったが、泥の上では0.43μSv/hという値が出た。他にも計ったが、泥や土の上の方がアスファルトやコンクリートの上より高い値を示す。JR福島駅前でも計測したが、土の上で1.04μSv/hという高い値が出る。アスファルトやタイルの上でも0.3-0.66μSv/hの高い値を示す。警戒区域に指定されている南相馬市小高区より、指定されていない福島市の方が放射線量が高いのだ。
後日、京都の自宅で測ったところ、0.06μSv/hだった。
見殺しにされた住民
小高区は南相馬市のもっとも南に位置する。福島第一原子力発電所から20km圏内の警戒区域に指定されていたが、4月16日に一部解除され、住民は許可を得ずに一時帰宅することができるようになった。ただし住むことはできない。住民は警戒区域の外で暮らしながら、昼間に自宅に帰って後片付けしなければならない。しかし多くの住民はまだ帰って来ていない。
1年以上人が立ち入ることができなかったため、震災と津波の被害はそのまま放置され、草が茂ってゴーストタウンと化している。街では人の気配をほとんど感じない。家々の庭や道路の路肩には1m以上もあるセイタカアワダチソウが立ち枯れしている。つる草に覆われている歩道もある。くずれた家や塀、道路の段差はそのまま放置され、田畑は荒れ放題。代わりにタンポポなどの自然の花が所狭しと咲いていた。
C氏の自宅はそんな小高区の平野の外れにある丘の麓にある。我々6人が到着したとき、庭には垣根を越えて流れてきた2台の軽自動車があり、大量の瓦礫が家の中や外に積み上がっていて、さらにワラが混じった泥が堆積していた。あまりにひどい状況に、「これは我々では手に負えない」とさえ思った。いったいどこから手を付けていいのか途方に暮れてしまう。しかし、立ちつくしているだけでは何も前進しない。とにかく手を付けられるところから始めた。
家の中に入っていけるよう、庭に積み上がった瓦礫を運び出して、燃えるものと燃えないものとに分別しながら庭の端に積み上げていった。家の中に残されたものは、ほとんどが塩水に浸って泥をかぶり、その後1年以上放置されているので、使い物にならない。
C氏の所有物もあれば、近所の人の所有物もある。どこから流れてきたのかわからないものまである。家の中にあるものはすべて捨てるとのことだが、大事なものまで捨ててしまわないよう、ひとつひとつ見分けて外に運び出す。すこしでも大切そうなものがあると、C氏に確認を取り、最善を尽くした。卒業アルバムが出てきたこともあった。
冷蔵庫は特にやっかいだ。中に1年前の食料が入っていて腐っている。しかも分解できない。そのため、数人がかりで運びだす。
家は部分的に柱が斜めになり、床がめくれ上がっていた。津波は地面から1mていど、家の床からは70cmていどのところまできた。
震災当日、C氏は近くの家で設備を取り付ける仕事をしていた。激しい揺れが襲った時、屋根から振り落とされないよう必死でしがみついていたという。揺れが収まって急いで自宅に帰り、母親を高台の集会所に避難させた。自宅で後片付けをしていると、海岸の方からドーンという大砲のような音がした。津波が防潮堤に勢いよく衝突した音のようだ。そのときの津波の高さは沿岸に植えられた松の木の倍くらいあったという。海岸からは1.8kmも離れていたが、ものすごい速さで迫ってくる。必死で茂みをかきわけて裏の山へ這いあがって振り返ると自宅が津波に飲み込まれた。
となりのおばあさんがいないので、近所の人たちが探した。夜7時ごろになって、C氏の自宅の庭に流されてきた軽自動車の中で、娘さんと一緒にぼうぜんと座っているところを発見された。このころには津波はおさまっていたが、2人とも恐怖のあまり動けなかったのだという。
震災の翌日3月12日は自衛隊が来て周辺を捜索していたが、13日は自衛隊の姿が見えなくなったという。原発が3月12日に事故をおこしたため、救出活動ができなくなってしまったのだ。C氏がいた集会所には電気がなく、テレビがつかないために外部からの情報が入らず、原発事故のことは知る由もなかった。C氏が近くの集落へ行くと人がいなくなっていたので、一体何がおこっているのか不審に思っていると、車でたまたま通りかかった人から原発事故のことを知らされた。国や自治体、東電からは何の連絡もなかったという。
C氏には避難したくても避難する手段が無かった。車は津波をかぶって動かない。年老いた母を置いて逃げるわけにはいかない。奥さんは病院で仕事をしていてなかなか迎えに来られない。ようやく3月15日になって奥さんが車で迎えに来て小高区を脱出することができた。
原発が事故を起こさなかったら、自衛隊は捜索活動を続けることができたはずだ。本来なら助かっているはずの人が、そのために亡くなっているケースは多いだろうとC氏は話していた。今となっては判らないだけで、原発事故のために見殺しにされた人はかなりいるだろう。
C氏宅のかたづけは、1日目で3分の1ほど作業が進んだ。思ったより早い。
翌日も私はC氏宅のかたづけを担当した。雨が激しく降る中、カッパを着ての作業を今回は女性2人を含む10人でのぞんだ。庭は津波の泥でぬかるんでいる。その中を荷物を運び出して集積所に積み上げる。
家具を大方外に運び出した後、泥を撤去した。数センチに及ぶワラが混じった泥を、平スコップですくって一輪車に積み込んでいく。
柱に防災無線が設置されていた。「防災無線なんか、なんにも役にもたたなかった」と虚しく言いながらC氏は防災無線を取り外した。防災無線は家庭用電源で動いていて、停電のときは役に立たないのだ。
夕方にはすっかりかたづき、雨戸を閉めることができた。前日に初めてここを訪れたときは、家屋と庭に積み上がった大量の瓦礫に、とても我々の手に負えないとさえ思った。すべて片付いた家を見て、我々もC氏も感激した。C氏に見送られて、我々はこの家を後にした。
被災地の闘いは続く
ボランティアは一方的に奉仕するだけではない。ボランティアは自分自身のために行うものでもある。現地へ行って作業に携わることによって自然災害について学ぶことができる。被災地の人たちとともに復興することによって、他では得ることができない体験をすることができる。
被災地の復興はまだ続く。まして小高区では始まったばかりだ。被災した家々は荒れ放題のまま放置されている。そんな中、仲町ボランティア活動センターの松本氏は、ボランティアの数が少ないと嘆く。今年1月から3月の間は特に少なく、ボランティア希望者が1日に1人のときが何日かあったという。警戒区域が一部解除された今、小高区の復興には1日100人前後のボランティアが必要だ。被災地は今、多くの人の助けを必要としている。より多くの人たちにボランティアとして被災地に入ってほしいと願ってやまない。
地球おどろき大自然のホームページ
写真・文 山本 睦徳

南相馬市小高区での作業
南相馬市小高区


南相馬市小高区
津波被害を受け、さらに原発事故を受け放置された水田。