知床硫黄鉱山の歴史

第一鉄索とその周辺:
 カムイワッカ川に堆積した硫黄を海岸へ運搬した索道


大阪市立自然史博物館外来研究員 山本睦徳

知床硫黄山は、幕末の頃に会津藩による硫黄採掘が始まりで、それ以降4回の噴火が記録されているが、噴火で溶融硫黄が噴出するたびに採掘が行われてきた。

知床硫黄山が最後に噴火したのは1936年のことで、冬の時期から10月頃にかけて半年以上の期間、標高600mの北西山腹にある1号火口(現在は「新噴火口」と呼ばれている)から116,523トンもの溶融硫黄が噴出した。硫黄は、水の8倍の粘性で(水より8倍ながれにくい)あるが、わりと流れやすく、1号火口から噴出した硫黄は斜面を下ってカムイワッカ川に流れ込んで、そこで冷却固化し、堆積していった。

明治時代から皆月家が採掘権を持っていたが、1936年9月には、日本特殊鉱業に譲渡され、近代的な設備を導入した大規模な採掘が始まった。日本特殊鉱業時代の知床硫黄鉱山には、第一鉄索と第二鉄索という主な索道(鉱石を運ぶためのロープウェイ)が2本あった。第一鉄索は、主にカムイワッカ川の中に堆積した硫黄を海岸に運搬した。一方、第二鉄索は、1号火口周辺に堆積した硫黄を海岸へ運搬した。ここでは、第一鉄索や関連する鉄道遺構について解説する。(20220120)



日本特殊鉱業時代の知床硫黄鉱山の地図(上)で第一鉄索を赤い直線で示した。遊覧船の硫黄山コースで訪れるカムイワッカ湾の崖の上に第一鉄索の駅があり、そこからカムイワッカ川の方へ索道のケーブルがのびていて、その先端には、カムイワッカ川側の駅(上の駅)があり、索道の搬器(バケットともいう)という荷台に硫黄を積み込んでいた。駅は、カムイワッカ川の二の滝の右岸の斜面を削り、石垣を築いて造成した土地に建設された。現在は建物は残っていないが、石垣を含めた平坦地を見ることができる。二の滝を上がってすぐに右岸(上流に向って左側)に入ると駅跡に行くことができる。(下の写真の左の大きな岩の向こう側を左に入る。)


この写真は、カムイワッカ川の二の滝を下流から見た風景だが、左の大きな岩の裏側には、鉱山時代の索道駅の建物のものと思われる柱が、岩にもたれかかるようにして残っている。



索道の駅が有った造成地を支えている石垣。


第一鉄索駅跡:
第一鉄索のカムイワッカ川側の駅跡を見てみよう。10m×12m程度のスペースで、山側を削って平らに造成されているようすがわかる。ここから海岸の方へとケーブルがのびていた。1936年の年の知床硫黄山溶融硫黄噴火で、カムイワッカ川は、大量の硫黄で埋め尽くされていた。カムイワッカ川で採掘された硫黄は、ここで、索道の搬器(荷台)に積み込まれ、海岸までの貯鉱場まで運ばれた。


第一鉄索駅跡を金属探知機で探査したところ、比較的浅いところから鉄製の金具が見つかった。これが何かはわからないが、車軸受けではないだろうか。


第一鉄索は、1936年9月に皆月家から日本特殊鉱業に鉱業権が譲渡されたときにはすでに建設されていて、ほどなくしてエンジンを動力にして稼働し始めた。

カムイワッカのより上流部、八の滝の少し上あたりまで硫黄が堆積していたのだが、おそらく、カムイワッカ川の中に堆積した硫黄の上に仮設の線路を敷設して、鉱車(トロッコ)で四の滝の下まで運んだのではないだろうか。実際に八の滝の周辺で鉱車のレールを発見している。

四の滝の下まで運んだ硫黄は、三の滝と四の滝の間で鉱車に積み込まれた。線路は、カムイワッカ川の中から右岸に敷設され、120m先の第一鉄索の駅の直上までのびていた。そこで、シュートという滑り台のようなものに硫黄を落として、急な斜面を滑らせた。シュートの一番下には、扉があり、それを開けて硫黄を搬器に流し込んだ。そして海岸へ向けて送り出した。(20220122)